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何処にもない街


これを使ってごらん、といった風に先生はカードを使って絵を描かれました。その時、わたしは、

ブラックの絵を模写していた最中でした。上手く描けない私に向って、先生は模範を示してくれ

たのでした。見よう見まねで私もカードを使い、絵の具を押し広げてみました。すると、一見、素

人とは思えないような仕方で絵の具を塗ることができるのでした。


このアトリエに行くことになったのは、知人に誘われたのがきっかけでした。当初は、見学をする

つもりだったのですが、いつのまにか知人と同様、絵を描くことになっていました。絵の具を持っ

ていなかった私は、いきおい、あたりにある絵の具を使うことになります。利用できる絵の具の

色は限られていましたが、幾つかの基本的な色の混淆が、想像以上に多様な色を生み出すの

でした。


このアトリエに行くはるか昔、別の場所で絵を習っていた時期がありました。その頃、小耳に挟

んだのは、ある実在の街を舞台としながら先生が絵を描かれているということでした。それから

とても長い年月がたったのですが、その先生の画集が出版されていることに、最近、気がつき

ました。


先日、注文していたその画集が届きました。確かにこんな絵を描かれておられた、そう感じられ

る絵がありました。絵の中にはある瞬間が定着されているのですが、それは、物語の始めや真

ん中や終わりに含まれる一つの場面を描写したかのようでした。そして、夕暮れ時に空を染め

る、あの紫がかった美しい赤を始めとして、多種多様な色彩が絵の中に描き込まれていました。


絵のなかで描かれた街は、実在の街から得た着想に基づいているはずでした。しかし、私の知

っているその街は、灰色の街であり、傍目には何の関係もないように見えるのでした。その街

は、時に着想の一契機となったのかもしれません。しかし、それが描かれる際には、きっと大幅

な再構成を経たのでしょう。


そのように考えたにせよ、私の記憶している街と描かれたその街の相違は奇妙なまでに大きな

ものでした。その違いは、次第に、画集を眺める私の中に一つの問いを形作るようになったので

す。あの街が灰色の街だからこそ、あえて溢れるような色彩で描かれたのだろうか、という問い

を。もちろん、その画集は私の問いに答えることはなく、豊かな色彩を湛えたまま沈黙を守って

いるのでした。
by aphorismes | 2007-11-28 20:34
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