日記とブログまで


最初に日記帳をもらったのは小学生の低学年の頃。覚えているのは、数年後にそれを読み返

した印象です。書き出しにはパターンがあり、起床や食事など、朝の日課が記されていると

いった具合。いつもの書き出しから始まった後、そのまま日記が終わる日もあったように思いま

す。それから、それから、と細かいことを書けばきりがないのですが、ワープロ機を使えるよう

になったことは新鮮でした。自分の書いた文章が活字になるのは、当時の私にとっては驚くべ

きことだったのです。しかし、ブログが登場する頃には、そうした活字効果も当然になっていま

した。ブログを始めた頃に新鮮だったのは、人と人とのやりとりでした。遠方に住む人のブログ

があり、あちらが書けば、こちらも応えるといったやりとりで文章が生まれていく。ただ書きたい

という理由から、時折、書いている人がおり、贈り物を交換するかのように日記や意見が交換

され、そして何かの弾みで盛り上がり、新しい文章が紡ぎ出される。個人が私的な日記を書く

というよりも、書き手やブログや文字やネットの総体が、複数の文章を生み出していたのか

もしれません。最近は、頻繁にブログを読むことはなくなりましたが、ブログの世界を盛り上げ

て、その多様性を広げていく、どんな仕組みがあるのかということが気になります。この2009

年、どのようなブログが書かれるのでしょうか。もっと新しく、興味深い何かが登場しているの

でしょうか。
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# by aphorismes | 2009-02-16 23:06

日記からブログまで


最初に日記帳をもらったのは小学生の低学年の頃。覚えているのは、数年後にそれを読み返

した印象です。書き出しにはパターンがあり、起床や食事など、朝の日課が記されていると

いった具合。いつもの書き出しから始まった後、そのまま日記が終わる日もあったように思いま

す。それから、それから、と細かいことを書けばきりがないのですが、ワープロ機を使えるよう

になったことは新鮮でした。自分の書いた文章が活字になるのは、当時の私にとっては驚くべ

きことだったのです。しかし、ブログが登場する頃には、そうした活字効果も当然になっていま

した。ブログを始めた頃に新鮮だったのは、人と人とのやりとりでした。遠方に住む人のブログ

があり、あちらが書けば、こちらも応えるといったやりとりで文章が生まれていく。ただ書きたい

という理由から、時折、書いている人がおり、贈り物を交換するかのように日記や意見が交換

され、そして何かの弾みで盛り上がり、新しい文章が紡ぎ出される。個人が私的な日記を書く

というよりも、書き手やブログや文字やネットの総体が、複数の文章を生み出していたのか

もしれません。最近は、頻繁にブログを読むことはなくなりましたが、ブログの世界を盛り上げ

て、その多様性を広げていく、どんな仕組みがあるのかということが気になります。この2009

年、どのようなブログが書かれるのでしょうか。もっと新しく、興味深い何かが登場しているの

でしょうか。

付記

タイトルを修正しました。
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# by aphorismes | 2009-02-16 23:06

赤子の頃


昨日、写真について書きました。写真が記憶になるなどというと、SF 映画に出てくるアンドロイ

ドのようですが、まだ小学校にいく前のこと、当時の記憶より、その頃とられた写真のイメージ

が鮮明に感じられるのは、私の場合、当然のような気もします。さて当時の写真には、砂場で

遊んでいる場面を撮ったものがありました。それはカラー写真なのですが、やや変色していま

す。ところが、そのためにかえって雰囲気があるのです。さらに数年さかのぼると、産まれて間

もない赤子の姿に辿り着くのですが、それは白黒のイメージです。当時のことを覚えているは

ずもなく、当時の写真が白黒であったからでしょう。私の場合、これら幼少期をとった写真の

数は限定されています。失われた写真もあったはずですが、生活の多忙さや、写真が今以上

に貴重なものであったという事情もあるのかもしれません。もし、今年うまれた赤ちゃんが数十

年後に大人となって、赤子の頃を思い出す時が訪れたなら、もはや白黒写真などではなく、

デジタル・カメラや動画からなる夥しい映像が、赤子時代のイメージをつくりだしているので

しょうか。
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# by aphorismes | 2009-02-13 19:57

記憶と記録


雨が上がったあと陽光がさし込んで来たせいか、あたりは清々しい雰囲気でした。幼かった私

は、初めて訪れた神社が気に入ったのか、嬉しそうな顔をしていたはずです。今、「はずです」

と書いたのには理由があります。幼少期の出来事を思い出そうとすると、自分で眺めた風景が

蘇るのではなく、写真に撮られた光景が思い出されてくるからです。もっとも、幼少期の出来

事に関して、写真の方が心に焼き付いているということは、別段、めずらしいことではないかも

しれません。問題は、これが写真のイメージだと、私が意識していなかったことにあります。幼

少期、引っ越しのために新幹線に乗ることになったのですが、想起されるのは、プラットホーム

で拒否反応を示していた私の姿であり、第三者の視点から眺められた光景なのです。これも

やはり当時の写真の光景ですが、普段は、そんなことを意識することは全くなかったのです。

記憶が薄れていくにつれ、いつのまにか写真に撮られた風景が幼少期の記憶の代理となり、

ついには記憶それ自体として想起されるようになる。また、ひょっとすると、アルバムを見てい

た際の誰かの思い出話などが、自分の記憶に組み込まれることもあるのかもしれません。記

録が記憶にとってかわるプロセスについて書いたわけですが、しかし、写真的なものは当初か

ら一つの役割を演じていたのかもしれません。写真のなかで私が浮かべていた表情は、写真

を撮る家族に対する反応だったのかもしれないのですから。
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# by aphorismes | 2009-02-12 22:43

革靴


ある時期は熟読していたのだけれど、何かのきっかけでぱたりと読むのをやめてしまった本。

そんな本が書類の影に隠れていたのに気がつきました。ここにあったのかと呟くだけで、日常

の雑事に向うこともできたのですが、どういうわけか、その本に再び目を通すことになりました。

その本を読みなおしていると、様々なところに書き込みがしてあります。赤と黒で引かれた下

線や書き込まれた文字の数々。下線の引かれた部分を読んで、確かにそうだったと記憶が蘇

ることもあれば、そうだったのかと再発見することもありました。もともと白と黒だけのそっけな

い本でした。様々な色で見やすく構成された本と比べれば見劣りするかもしれません。しかし、

書き込みをしたことで、自分に馴染んでいるような気がするのです。実は、その本には新しい

ヴァージョンがあり、内容的にはそちらの方がよいだろうと思うのですが、なかなか、そちらに

移ることができません。何故か新しい革靴と履き慣れた革靴のことを考えてしまいます。
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# by aphorismes | 2009-02-11 21:44

窓口の前と後


切手をいつも揃えておいて重さを量って投函する、というのが理想であるわけですが、急ぎの

郵便物がある時は、大抵、郵便局が閉まった後、ゆうゆう窓口にいくことになります。遅くまで開

いているので大助かりなのですが、窓口には、人が並んでいます。窓口で御願いをする時も、

微妙に気が急くことが多く、並び直すこともありました。それにも増して気になるのは、窓口で

対応してくれる方のこと。少人数で様々な仕事に対応するため、いつも大忙しといった様子で

す。申し訳ないと思いつつ、それでもやはり依頼をすることになります。そんなわけで、窓口に

立って依頼をする時は、後方で並ぶ人、前方で慌ただしく動き回る方の双方を意識するよう

な気がします。窓口で細かな依頼をするのが普通の国は別として、窓口ではその前後が気

になります。


付記

一部、修正しました。
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# by aphorismes | 2009-02-10 18:16

切替えの作法

一時、映画をよく見ていた時期がありました。ストーリーを楽しむだけではなく、それらによっ

て隠されがちな細部に注目しながら、何らかのパターンに気がつくのは、難しいものだと感じ

たことがあります。この監督の映画では、カメラは静止したまま遠くの対象を捉えていることが

多いとか、あるいは逆に、カメラはダイナミックに動くことが多く、近距離で撮影された映像が

矢継ぎ早につなぎ合わされる場面があるなどといった特徴であれば、比較的わかりやすいの

かもしれません。他方、ある場面からカメラが主人公の視線になっていく、あるいは第三者の

視線へと、さらには非人称の視線に切り替わるなどといった変化は、すこし油断をしていると意

識しなくなるのですが、時にはそうした変化が重要な場合もあるのかもしれません。小説にお

いて、これに対応する事柄はどのようなものであり、どのような場面で重要になりうるのか、あ

るいはこのような比喩で語るべきではない理由などについて、詳しい方に聞いてみたいような

気がします。

付記

同じ文章が複数投稿されていたため、余分なものを削除しました。

ご迷惑をおかけして、どうもすみませんでした。
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# by aphorismes | 2009-02-09 22:35

日記


ひさしぶりに日記をよみました。地味な装丁で、分厚い本でした。すこし、ページをめくってみ

ます。やはり、今日は何をしたとか、誰と会ったなど、細かな事柄が書かれていました。最後の

ページをみると千ページを超えていることに気がつきます。その日記の分厚さに、あらためて

私は打たれました。その日記をよんでいるとき、意識したのは書かれた内容でした。しかし、

文字を追っている間、厳めしい装丁の重厚さが文章の後景となり、読書における隠し味となっ

ていたような気もしたのです。書かれた内容は、その日その日の記録であり、断片であるわけ

ですが、本という形態からは、一体感のようなものが感じられます。辞書か何かのように、時

折、よむということも可能であったことでしょう。しかし、既に書き終えられた分厚い日記の威容

によって意気沮喪させられた私は、短い間しかその日記を読み続けることは出来ませんでし

た。その後、スクリーンの表面でブログをよむことについてぼんやりと考えます。断続的に書き

続けられていく、この未完のものについて。
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# by aphorismes | 2009-02-06 20:11

前と後


激しい運動の前に運動をすることがありますが、きっと何かの作業をする前にも、準備が必要

なのだろうと思います。それは、単に気持ちを引き締めるための儀式的な行為かもしれません

し、手順等を確認する必須の作業であるかもしれません。作業をする「前」と書きましたが、そ

の「前」は「後」でもあるはずです。作業が終わった「後」には、次の作業が始まるまでの空白の

期間が訪れます。その間に休息をとるわけですが、場合によっては、作業時の好調なリズムへ

と容易に復帰できず、再びエンジンがかかるまでに苦労することもあります。反対に、燃え尽き

ないよう休息をとりつつも、次の作業につなげるのが上手い方もおられることと思われます。ま

た、ある場合には、空白期間の前後で作業の質が大きく変化することもあるでしょう。そうした

とき、前の作業で体得した精華をいかに保持していくか、という課題が生じます。新しく異質

な作業に対応しながら、かつて体得したものをどう活かすのか。あるものは、もはや通用しな

くなっているかもしれませんし、齟齬の中から新しいアイディアがうまれるかもしれません。一

般論ではなく、個別の事例から見えるものはどのような事柄でしょうか。
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# by aphorismes | 2009-02-05 22:12

音楽と記憶


あと5分。停留所でバスを待つ間、私は音楽を聴くことにしました。周囲には仄暗い照明があ

るばかり、私は自然と音楽に集中することになりました。その音楽は、5年ほど前の冬によく聴

いたものでした。あの頃は、毎日のようにこの音楽を聴いたものです。そのせいか、一曲、二

曲と音楽を聴いているうち、自然に当時のことが思い出されてきたのでした。その音楽には歌

詞がついていますので、私は、メロディやリズムといったサウンドを意味づける言葉を何度も聴

いていることになります。ところが、さきのような場合、ときおり歌詞を意識することはあるもの

の、個人的な状況や体験が基盤となって、歌声の喚起する感情と呼応しながら、音楽を聴い

ているような気がするのです。ある種の音楽体験においては、音楽と聴き手の対話的関係が

重要となるのかもしれません。
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# by aphorismes | 2009-02-04 23:15