<   2007年 05月 ( 7 )   > この月の画像一覧

河岸にて

学生時代のことですが、夜通し続いた飲み会のあと、始発電車の時刻まで友人たちと河岸

で待っていたことがあります。眠りこけた友人たちに話しかけることの出来なかった私は、河を

眺めて時間をつぶすことにしました。流れる水は絶え間なく音を立てていました。ぼんやり河を

眺めていると、夥しい数の微細な波頭が水面に拡がっていることに気がつきました。早朝の陽

光に照らされた小さな波頭の大群は、刻一刻と光を乱反射し明滅しています。私は暫くその

光景から目を逸らすことが出来ませんでした。


 特に河に興味をもっていたわけではない当時の私は、普段は橋の上からその河を遠目に眺

め、足早に通り過ぎるだけでした。そのせいか、河は昔からそこに在り、漠然と同じものだと思

い込んでいたのです。しかし、偶然、近距離で河を眺めたことにより、同じ名で指し示されるこ

の河が常に変容しているという、至極当然のことに気がつきました。


 もちろん、河にまつわる変化は他にも考えられます。豪雨の後の変色や増水。長く続いた日照

りによって干上がった河等々。逆に、河の水位が戻ったり、水が再び透明になったりという、望ま

しい変化もあるでしょう。また、海の近くの河を見ていると、海水が河の上流へと逆流していく

のを見かけたこともあります(満潮の時間帯だったのでしょうか)。これらは気がつきやすい変

化です。いつも通りの状態に変化が含まれていることを示す点では、夥しい微細な波の光景

の方が私にとっては印象的です。

 変化や新しいものが、肯定的に語られることがあります。そうした場合、継続される同じ状態と

の対比から、変化が称揚されるように思われます。しかし、水が流れることによって河が河で

あるように、同じ状態であるように見えるものが、微細な変化によって維持されている場合もあ

るはずです。変化や新しさという言葉は、時に、レトリックとして用いられることもありますが、変

化することそれ自体に価値があるわけではないように思います。

付記(5月26日)
この文章を書いた際は、ブログの投稿の整理について特に意識しませんでした。念のため。
[PR]
by aphorismes | 2007-05-26 01:55

写真について

当ブログで使用した写真について検討中です。
また、引用についても再検討しています。

作業が終わるまでしばらくお待ちください。
                 *  * *
付記
色々と不備がありまして誠に申しわけございません。
現時点では以下のような方針で作業をすすめております。
(もう少し時間がかかると思われますが...)

[写真の掲載について]
・著作権、肖像権などを考慮して不適切と思われるものを非公開にしています。
・ 雑誌の表紙やオリジナルの芸術作品の写真を非公開にしました。

[文章の引用について]
・ 文章に対して引用が従の関係になることを目指しつつ、著作権の消滅していないものについては、引用文のみの投稿を非公開としました。
・新聞記事の引用(ないし内容の要約)のみに終始した投稿を非公開にしています。
・なお、引用符をつける作業を進めている途中です。
[PR]
by aphorismes | 2007-05-26 01:37

引用にかんするお知らせ

5月20日,長い引用文だけの投稿について,文章を短くする作業,ま

たは新たな文章を加筆する作業を部分的に行いました.この時は,ま

だ実験的な段階でしたので更新情報を通知しない設定で作業し,全

体を整理し終わった後に,告知する予定でおりました(その後,アクセ

ス数が増加したため,途中ではありますが,説明する必要があると判

断しました).作業の後,単なる要約ではない文章を加筆するにはか

なりの時間を要すると実感.ほぼ長い引用文だけからなる投稿につ

いては,今後,一時的に非公開とし,可能なものは時間をかけて再公

開・再投稿する方がよいと考えるようになりました.なお,最後となりま

すが,読者のなかに色々とご迷惑をおかけしている方もいらっしゃると

存じます.改めてお詫び申し上げます.

付記
若干,字句修正

付記(2007年5月26日)
追加で一時的に非公開にした投稿が多々あります。現在も作業中。
[PR]
by aphorismes | 2007-05-23 01:40

日記と断想について

 10年以上も前のこと、日本人の、ある高名な映画監督の日記が出版されました。あの作品

を撮っていた頃、彼は日記に何を書いたのか。こんな関心を持って本を取り寄せました。書か

れていたのは、主に、誰と会って、どこに行ったか、そして何を食べたか、等々。それはまさし

く、「日記」でありました。当初は、作品解釈の参考にしようと考えたのですが、一読した際、

難しいと感じました。


 今日、ブログという形態で日記は頻繁に発表されています。過去に目を転じてみると、『更級

日記』や『土佐日記』の名前が想起されます。日記が興味深いのは文学作品としてばかりでは

なく、政治家による記録が人々の注意を喚起することも考えられます。さらには、普通の人物に

よる日記が興味を持たれる場合もあるでしょう。ただし、「内容」や「書き手」の社会的位置、

それが書かれた時代以外にも多様な要素が日記に関連しています。記述する際の「形式」や

「媒体」がどのように推移してきたのか、日記をめぐって、物や人間を含めた諸要素の関係が

どのように絡み合い、変容したのかなど、日記の歴史について思いめぐらすことも出来るかも

しれません。
 

 「日記」について考えるてみると、「断想」という言葉も気になってきます。『広辞苑(第五版)』

によると、「日記」は「日々の出来事や感想などの記録」であり、「断想」は「折にふれて感じた断

片的な想い」です。この定義によると、両者は重複しながらも、断片性が断想の特徴のように

思われます。他方、亡命思想家・文学者であるE・カネッティは、日記と断想を次のように区別

しました。日記では、具体的な出来事が書かれ、特定の親しい人物をめぐって展開する傾向

があります。それは、人生の連続性を示すものです。これに対して、<断想>は、矛盾と自発

性を「糧」としており、断想間の飛躍が最も重要であるとされます(岩田行一訳『断想1942 −

1948』 法政大学出版局、1976年、3頁)。日記が、毎日、記すべきものであるのに対して、

<断想>は、時折、そしておのずから書かれる———このような対比が想像されます。彼

は、また、連続性を示す日記に対して、矛盾や飛躍を<断想>の特徴とします。後者にあるの

は変化への志向なのでしょう。しかし、翻訳者によれば、カネッティは<断想>を三十数年も

書き続けたそうです。


 私は、カネッティに詳しいわけではなく、<断想>に関する彼の定義に依拠してきたわけでも

ありません。彼の定義は興味深いものですが、日記と断想の混淆といった事態もあるのではな

いでしょうか。しかし、これは誰しもが考えることでしょう。むしろ、私は、断想をめぐるマイナ

ーな思考の鉱脈が気になりました。断想の可能性と限界についても然り。とはいえ、残念なが

ら、これらについて述べるには機会を改めなければなりません。


付記

リハビリのため書いた文章ですが、予想以上に時間がかかり、投稿が遅くなりました(しかも、

投稿直後に微調整しています)。

ちなみに、カネッティによると<断想>は、「どんなことも補綴されたり補完されたりしてはなら

ない」。その意味で、「付記」のある文章は、彼の<断想>とは異なります。

なお、彼の文章のなかで、自発性が糧になるという表現が当初、印象的だったのですが、「自

発性」という言葉はやや素朴であるようにも思われます。
[PR]
by aphorismes | 2007-05-19 01:08

日記(5月17日)

数日前から体調が回復。昔のように夜型になりつつあります。

本業の合間、投稿予定の原稿に関する本を読みましたが、考えがまとまりません。

書けない…。

理由は様々でしょう。すでに、ブログを始めて約一年半が経過、すでに色々なアイディアを使

い、新鮮さが失われています(積み残した問題もあります)。文章の場合、ひょっとしてその

領域の専門家に読まれるのではと考え始めると、以前のようには書けません(日記

はともかく)。安易な解決策はなく、重要な問題については時間をかけてじっくり考えていくし

かありません。しかし、金曜ないし土曜日は確実にやってきます。どう折り合いをつけるのか、

難しいところです。

付記(5月19日)
「夜型になりつつ」あると書いたこの夜は、疲れていたこともあり、早めに帰宅しました(ブログ

投稿直後)。仕事場の明かりをつけっぱなしだったことが翌日に判明。もったいない。
[PR]
by aphorismes | 2007-05-17 22:27

井戸水と湧き水

冷水がおいしい季節になってきました。今では、ペットボトルの水も、当たり前になりましたが、

昔、京都に住んでいた祖父母の自宅で、古井戸を見かけたことがあります。もちろん、当時、

すでに水道水が使われていたため、この古井戸は台所の傍らにひっそり佇んでいたように記憶

しています。ところで、中国に、「井戸水は、湧き水の敵ではない」という諺があるようです。湧

き水は、遠い所にありますが、新鮮な水が次々に溢れ出ます。他方、井戸水は、湧き水ほど新

鮮とはいえませんが、身近なものです。各々、異なった特徴があり、相容れないことはない

——中国について私は詳しく知りませんが、諺からこんなことを想像しましたが、あるいは、

井戸水は湧き水にかなわないという意味なのでしょうか。機会があれば、中国人の方に意味

をきいてみたいと思います。



付記(5月11日)
当方、原文を読んでいないので微妙なニュアンスがわからず、解釈というよりも、諺に触発さ

れて想像したことを記しました。読者の方のご指摘、お待ちします(なお、上記の文章、若

干、修正しました)。
[PR]
by aphorismes | 2007-05-10 23:16 | [諺]Proverbes/dictons

声と記憶

「ミルマン・パリーの要望に応じて……読み書きのできないセルビアの吟唱詩人が,『オデュッセ

イア』と同じほどの長さの詩を朗唱した.」

(M. I. フィンリー,下田立行訳『オデュッセウスの世界』岩波文庫,1994年)


付記

文字を使用しない人々の記憶力にかんする,20世紀前半の事例.

先行する世代の蓄積した膨大なエピソードや夥しい定型句を操り,

熟練した吟唱詩人が聴衆の前で作詩したと述べられています.

(なお,松本仁助『「オデュッセイア」研究』北斗出版,1986年の2章に関連する記述があり)

*投稿後,若干,修正.
*数日、経過しましたので日記(5月4~5日)を削除しました。 
[PR]
by aphorismes | 2007-05-04 23:58 | [資料集] 記憶 mémoires