カテゴリ:[資料集] 社会société( 27 )

風刺動画の光と影

風刺は一つの批判のあり方で,ユーモアや皮肉が込められている点に特徴があるのだと思い

ます.もっとも,一口に「風刺」といっても,時代の<風潮>に対する風刺や<人物>に対する

風刺など,対象は様々でしょう.ところで,私が取り上げたのは強者に対する風刺に限られま

す.しかし,悲しいことですが,弱者に対するからかいも,この世界には存在します.弱者に対

する過度の風刺やからかいは,避けるべきものです.親しみを込めた,軽い気持ちによる行為

でも,力関係の差が予想外の帰結を生み出すかもしれません.では,強者への風刺に問題は

ないのでしょうか.これまであえて言及しませんでしたが,強者に対する風刺の中にマイノリティ

への偏見が含まれていた場合もあります.弱者への風刺はいうまでもなく,強者への風刺にも

影が付きまとっているのでしょう.


風刺には,言葉や絵など,多様な媒体が考えられます.とくに動画の場合,それを制作するに

は一定の情報機器や操作能力も必要となります.誰もが反射的に真似できるというよりも,一

定の条件のもとで時間をかけて作られるものと思われます.にもかかわらず,すでに動画によ

る風刺が国境をこえて制作され,流通しています.職業的制約の中で作業するプロのつくった

風刺漫画とは異なり,動画共有サイトにおける風刺動画の場合,主な制作者は匿名のアマチュ

アと思われます.かつては与えられるだけであった映像を,人々が与え返す――この社会現象

には,アマチュアによる制作に伴う問題が含まれています.弱者をからかう動画があるのなら,

それが非難されるべきなのは,いうまでもありません.気がかりなのは,強者に対する風刺動

画が,弱者をからかう風刺動画のモデルとなってしまう危険性です.風刺動画といじめの因果

関係について書かれた書物を私は知りません.しかし,通説ができてから対応したのでは手遅

れになることもあります.こうした懸念は,実現してしまうよりも杞憂になるべきものでしょう.風

刺動画の流行が否定的な帰結を連鎖的に生み出すことを防ぐには,それについて何を語り,い

かに論じるべきなのか,そんなことを考えるようになったのです.

もっとも,すべての風刺動画やそれに関する記述を禁ずることは,表現の自由に関する問題を

引き起こすという見方が考えられます.また,風刺動画のなかには,公的な発言権のない人々

の声が響いている場合があるようです.他方,風刺動画は問題の単純化を伴い,偏見を含む危

険性も考えられます.問題は,光と影の交錯を見据えながら,しかも,なお表現の自由を確保

するにはどうすべきか,この点を個々の局面に応じて考えることなのでしょう.では,以下で私

は,このブログに関連し,気がついた事柄と対応策を,一つの提案として,書き留めたいと思い

ます.

一般に,風刺動画は軽視されがちです.その裏返しとして,風刺動画の過剰な称揚が生じる場

合も考えられます.しかし,必要なのは,軽視と称揚のどちらかを選ぶことではないのでしょう.

風刺動画の意義について論じる際は,その否定的な側面についても配慮したいと思います.

次に,文章の主旨からいって,風刺動画や動画共有サイトの名称に言及しなくても議論が成

立することも考えられます.そのような場合は,名称を記号におきかえたいと思います.この考

え方からすれば,風刺動画へのリンクだけの投稿は成立しなくなります.

名称を記号に置き換えるのは,過剰な流行を引き起こすことへの警戒感を示すためです.ま

た,同様の理由から,短期間に集中的に,風刺動画についての議論を行うことにはできる限り

慎重でありたいと考えております.

 最後となりますが,ご多忙にもかかわらず,ご意見をご表明くださり,重要な問題に気づくきっ

かけを与えていただいた全ての皆様に感謝とお詫びの言葉を申し上げます.



付記1

・意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが,この文章の出発点は,「自殺と模倣とマ

ス・メディア」(2006年10月30日),そして,この投稿で引用した次の書物です(高橋祥友『群

発自殺 流行を防ぎ、模倣を止める』中公新書、1998年)。

・また,以上の文章は,読者の皆様からの返答と私が想像したものに触発されながら,自分な

りに考えた事柄です.勝手な解釈かもしれませんので,あえてお名前をあげておりませんが,

ご要望などございましたら,メールにてご連絡ください.

・なお,文章末尾における提案は,このブログにおける対応をのべたもので,一般論ではござい

ません.読者層の限定された歴史研究における風刺の扱い方,また,子どもを対象とするテレ

ビにおける風刺動画にたいする対応など,領域に応じた基準があって当然ではないかと思われ

ます.


付記2
若干,修正した文章を再投稿しました.同時に旧稿を削除して入替えました.

そんなことをしている間に日付が変わってしまいました(残念).

付記3
発表時期がずれたため,二番煎じと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが,名称の記号

への置き換えは,自分で考えていたものです.ある考えが,たまたま,人の意見と重なるという

ことが,時には,生じるようですね.

また,「風刺動画の光と影」を書くのには時間がかかりました.様々な事情がありますが,一つ

の理由は,自分なりの文章が書ける心境になるのを待ったということもあります(至らぬ点は

多々ありますが).迅速な対応ができなかった点,お叱りの声もあろうかと思いますが,ご理解

いただければ幸いです.

【関連文書一覧】
デジタル複製技術時代の政治家:権威性のゆくえ

風刺動画をめぐる問い

風刺画の時代 −−−漫画新聞の興隆と国際的展開

自殺と模倣とマス・メディア
[PR]
by aphorismes | 2007-04-01 00:19 | [資料集] 社会société

民主主義,情報,表象

Répliques

Répliques par Alain Finkielkraut (émission du samedi 17 mars 2007)

付記
ブログも含めたネットの世界についての議論(功罪)が含まれているようです.

個人的には「文化」の概念が気になりました(「文化」には芸術や生活文化など様々な意味があ

るので,どの定義を選択するかによって議論がかわります).

付記(3月27日)
上記は当方の勝手な感想です.念のため.
[PR]
by aphorismes | 2007-03-24 20:38 | [資料集] 社会société

風刺動画をめぐる問い

先日,久しぶりに見た○○○○にて,○○○○ という風刺映像を見つけました.上にある

「風刺画の時代」(3月18日)で引用した文章に書かれていますが,19世紀は風刺画の流行し

た時代でした.現在では,アメリカのみならず,フランスなどでも政治家を風刺した映像が,

動画共有サイトに投稿されています.(アメリカから広まったのでしょうか?).

雑誌で論じられたり,事件が報じられることもあるようですが,それらのイメージは誰によって

制作されているのでしょうか?また,主として,誰によって受容されているのでしょうか?

気になるのは,それらのイメージが選挙に対してどのような効果をもつのかという点です.ま

た,当方の知る限り,動画による風刺はメディアリテラシーの教科書に掲載されてはいないと思

います.これらに対して,どのように接するべきなのでしょうか?


付記(3月25日)
説明不足との感もあり,改題・加筆・修正を行いました.

付記(3月26日)
なお,上記の修正の際,リンクの削除を行っています.

付記 (3月27日)
昨夏,中間選挙の前だったと思いますが,ブッシュに関する様々な種類の投稿を,ある動画共

有サイトで見つけ,大変驚きました.というのも,この映像群をみるまで,大統領を写し出した映

像は,(特に選挙の際は)厳しく管理されていると考えていたからです(例えば,レーガン時代の

アメリカなど).それから半年ほどが過ぎ,偶然,ブッシュに関する新たな風刺映像を見つけ,

再び驚きました(音声はドイツ語で英語字幕付).調べてみると,これ以外にも,アメリカの動画

共有サイトで削除されたブッシュの映像がフランスの動画共有サイトに投稿されていることや,

フランス人政治家の風刺動画があることにも気がつきました.ブッシュの風刺映像がきっかけ

かどうか確証はありませんが,政治家の風刺映像が,一つの言語や国境を越えて広がってい

るように,私には思われました.

 その後,当方の記憶では,ブッシュを背後で操っているのは誰かといったタイトルの投稿を行

いました.内容は,このタイトルを見てなんて凡庸なんだろうと感じた方は○○○○をご覧く

ださいというものだったと思います(それ以外の説明はありませんでした).日を改めて,上記の

経緯や関連する問題について書いた文章を投稿するつもりだったのですが,思案しているうち

に説明文の投稿が遅くなりました.

 新しい手段による風刺が現れていること,それがアメリカだけではなく他の国にも見られるこ

と,大統領や政治家のイメージ・コントロールの問題については,テレビに加えて,動画共有サ

イトも考察の対象になる時代になったと思われること(重要か否かは留保するとしても),従来な

かった事態が生じていること,などが私には気にかかります.当初は,風刺映像の一事例を紹

介したつもりでしたが,今,考えますと,当方の目的は一風刺映像の分析ではないので,当初

の投稿(タイトルの付け方やリンク)は,これらの問題を考えるために不必要で,また注意をそら

す可能性もあると思われます.説明のない当初の投稿を見て不愉快な思いをされた方がいらっ

しゃると思いますが,お詫び申し上げます.


なお,上記の「付記(3月27日)」は,昨日,草稿を書き,本日,修正して投稿したものですが,

当方の対応の遅さから,また,この件に関連してご迷惑をおかけしてしまった方が多々いらっし

ゃると思います.事例を紹介する仕方が適切ではなかったことも含めて,改めてお詫び申し上

げます.誠に申し訳ございませんでした.


また,現在,動画の名称をこのまま残すかどうかで迷っておりますが,ご意見をお持ちの方が

おられましたらご教示ください.

付記(2007年3月31日)
「風刺動画の光と影」で詳しい理由を説明をしておりますが,上記の文章中で言及されている

動画共有サイトおよび風刺動画の作品名を○○○○という記号に置き換える作業を行いまし

た.「風刺動画の光と影」へ(2007年4月1日追加)
[PR]
by aphorismes | 2007-03-17 16:47 | [資料集] 社会société

『教育改革の幻想』

「今までの改革は、その実効性を評価することもなく、目新しさを追いかけすぎたのではな

かったのだろうか。税金によってまかなわれ、多くの人々に影響を与える公教育という社会事

業であるからこそ、実現性の乏しい理想に流されることなく、今、できていることを基礎に、少し

でもよりよくするための具体的な手だてと資源を提供する。幻想から逃れた教育改革の発想

とは、こうした当たり前の考えを出発点におくものである。

現実との対話を欠いた理想は、実現のための手段を見失うがために、容易にイデオロギー

へと転化する。イデオロギーとして、その視点から現実の教育を批判しえても、それを改善す

る手だてを具体的に示すことはできない。これでは教育の理想は、空虚なたてまえとして、現

実との乖離を押し広げるだけである。」 苅谷剛彦『教育改革の幻想』ちくま書房、2002年。


付記:

先程、テレビ・ニュースを見た後、久しぶりに手に取ったのが本書。

2002年の書物であり、「ゆとり教育」や「新しい学力観」が扱われています。

現在とは文脈が異なるのですが、引用した部分が印象に残りました(11/16)。

引用部分を追加しました。それにしても、苅谷氏の問題提起は、その後、どれくらい活かされ

ているのでしょう(11/17)。


付記(2007年4月22日)

 この土日は仕事をしていました。以下は、その合間に書いた雑感です。
 
ご存知のように、高校生全国学力テストの結果が話題になっています。ゆとり教育と学力低下

を結びつける見方を見直すべきではないか、と考える人もいるかもしれません。しかし、数値

の「解釈」については、議論が分かれるのではないでしょうか。また、これは長期的な傾向と言

えるのでしょうか。そもそも学力とは何なのでしょうか。様々な問いが浮かんできますが、少な

くとも、上記の書物が、新たな文脈で読まれることは確かでしょう。時間が必要と思われます

が、新しい章を増補した書物が出版されることを期待します。また、同じ問題を対象とした異

なる著者の書物も読みたいと思います(しかし、長期的な分析がなされる前に、改革などによ

り前提条件が変更される可能性も考えられますが)。


付記(2007年4月24日)

22日付の「付記」ではあえて言及しませんでしたが、苅谷氏は、4月14日の毎日新聞で高校

生全国学力テストについて言及されています。書き出しは、次の一文です。「今回対象となっ

た高校3年生は、新学習指導要領の実施世代であると同時に、学力低下批判から学力重視

を打ち出した「確かな学力」路線が始まった世代でもある」。 

 なお、苅谷氏は、「webちくま」において、「この国の教育にいま、起きていること」を連載されて

おられます。
[PR]
by aphorismes | 2006-11-16 23:13 | [資料集] 社会société

家族をめぐる問題:過渡と迷走

1980年代において落合恵美子は、家族の崩壊をめぐる議論が近代家族の変化にすぎない

と喝破しました。「『家族崩壊』の予感は、未知への旅立ちの常として確かに恐ろしいが、崩壊

するのはたかだか二百年かその半分以下の歴史しかない<近代家族>というひとつの家族

類型にすぎない」(落合、1989)。当時、このような見方は新鮮に思えたものです。彼女はま

た、近代家族の崩壊はむしろ、それからの解放であると仄めかしました。「いまや桎梏と化した

<近代家族>の崩壊ののち、『<近代家族>からの解放』を謳歌するのは、われわれ自身で

あるのかもしれない」(同上)。不安に彩られた家族の言説に希望が吹き込まれたかのようで

した。

落合論文が『現代思想』に掲載されてから約20年。

2005年に出版された書物で山田昌弘は、落合流の見解とはあえて異なる見方を提示してい

ます*。現代では、家族の迷走期が始まっているのだと。


「もちろん、落合恵美子が何度も強調するように、『家族は姿を変えて存続する。現在は、過渡

期にある』との主張も有力である……。しかし私は、それほど楽観的になれない。ウルリッヒ・

ベックは、『個人化が進行し、家族という概念枠組みで社会や人間関係を把握することは難し

くなる』と述べる。私も、現時点では、ベックと同じく、家族の迷走期が始まっていると判断す

る。迷走とは、従来の家族モデルにすがる人、新しい家族モデルを試す人、そして選択した家

族モデルの実現ができる人、できない人、そして家族自体をもちたくてももてない人が混在

する状況である。」(山田、2005、225頁。)


過渡期か迷走期か。大問題ゆえ、ここではあえて私見を述べません。時間をかけて考えてみ

たいと思っています。

*落合恵美子による、別の論文へのコメントです。

【参考文献】
上野千鶴子、1994年、『近代家族の成立と終焉』岩波書店

落合恵美子、1989年、「<近代家族>誕生と終焉─歴史社会学の眼─」『近代家族とフェミ

ニズム』 勁草書房(初出は『現代思想』第13巻第6号 1985年6月)。

─────、1996年、「近代家族をめぐる言説」井上俊他編『<家族>の社会学』岩波書店

山田昌弘、2005年、『迷走する家族』有斐閣

注:パーソンズ、マードック、アリエスらの文献は省略

付記(2007年4月29日)

参考文献リストに落合恵美子氏による論文がございますが、出版社名など欠けていた情報が

ございましたので、加筆いたしました。なお、雑誌に掲載された際の初出情報も記しておりま

すが、私が参照したのは勁草書房から出版された書物の「初出一覧」です。
[PR]
by aphorismes | 2006-11-06 17:48 | [資料集] 社会société

復讐心と親切気ーードラマ「家族」 第三回 [11月3日(金)放送分]

[あらすじ]

冒頭で竹野内豊演じる主人公は、妻が離婚と親権を希望していると弁護士から告げられま

す。あなたには子育てはできないという妻の言葉への反発から、主人公は幼稚園のバザー委

員長を引き受けてしまい、奮闘する様子がドラマの前半で描かれます。バザーは成功裡に終

わり、居酒屋で打ち上げがなされるのですが、子育てのため出張や残業をしない主人公は会

社では顰蹙をかっており、見積りミスのためついに解雇を言い渡されます。その後、主人公は

かつて自分がリストラをした人物がいる会社に雇われるのですが、全く無意味な仕事をさせら

れたあげく、主人公は解雇されてしまいます。それが手の込んだ仕返しであったことに気づい

た主人公は、人気のない夜のオフィスで、自分をだました男に殴りかかろうとするのですが、

すんでのところで思いとどまります。その後、屋台で泥酔したあげく、帰宅。するとそこには渡哲

也の演じる佐伯が子供を寝かしつけて待っています。短期間に二度の解雇を経験し泥酔した

主人公は、リストラの仕返しをされたこと、子育てをあきらめて妻にまかせることを彼に告げま

す。しかし、佐伯は自暴自棄になっている彼を殴りつけます。


[二人の男]

ドラマの後半における主人公の経験は、自分に仕事を頼んだ人物に殴りかかろうとした後、自

分が子供の世話を頼んだ人物によって殴られるという反転からなっています。しかし、より重

要なのは、主人公によってリストラされた二人の男性の対比的な描かれ方でしょう。一方で

は、最初から解雇するつもりで雇用し、無意味な仕事をさせる男がおり、他方には、仕事で遅く

なる主人公の子供を家に送り届ける男がいます。リストラに復讐する男/善意で応える男とい

う対比には、主人公に殴られそうになる/主人公に殴りかかるという別の対比が対応していま

す。これらの対比が効力を発揮するのは最後の場面。佐伯に殴られて酔いから醒めた後、主

人公はテーブルにおかれている夕食を見つけます。かつて主人公によってリストラされた経験

があるにもかかわらず、佐伯は復讐することはなく、常日頃、彼の子育てに協力しており、この

日は料理までつくって待っていた。つまり最後の場面では、復讐する男との極端な対比におい

て佐伯の人柄が照射される仕掛けになっているのです。泣き崩れる主人公の顔を映してドラ

マの幕は閉じられます。

もっとも、復讐心/親切気という対比が曖昧になる場面もあります。子育てを諦めようとしてい

る主人公を殴った後、自宅にもどった佐伯は自分の手を無言で眺めます。幼稚園で接す

る子供のためとはいえ、なぜ殴ってしまったのだろう、と言わんばかりに。この場面は短くセリフ

がないため、様々な解釈が可能でしょう。子供のために口論になり、暴力をふるったつもりだっ

たけれども、リストラの話を持ち出されたことで、普段は意識していなかった怒りが現れてし

まったのかもしれない。こう自問自答しているように私には思われたのでした。


『クレイマー・クレイマー』は父と子の関係を中心に描き出していました。ドラマ『家族』のなか

で、血のつながった父子関係が描かれるのはもちろんですが、バザーに出すぞうきんを縫う場

面やけんかをする場面など、主人公と佐伯の、複雑で擬似的な父子関係が生き生きと描きだ

されています。物語の大きな枠組みは実際の家族関係をめぐって展開されるわけですが、そ

うした物語のはざまに散りばめられた、擬似的な父子関係にかかわる小さなエピソードが、

数々の印象的な場面をつくり出しているように思われます。
[PR]
by aphorismes | 2006-11-04 12:35 | [資料集] 社会société

ウェブ・サイト と いじめ対策

前回紹介した『群発自殺』が出版された90年代後半と現在。比較すると変わった点があるは

ず。例えば今では、「いじめ」という言葉で検索すると多くのウェブ・サイトが見つかるようになり

ました。他人に相談するのは決意が必要ですが、サイトであれば容易に見られる。また、たとえ

専門書を購入しなくても、その気になればウェブ・サイトから情報が得られる。これらの点は

『群発自殺』が執筆された時代とは状況が変化しているように思われます(ある言葉を打ち込

んで検索するとサイトが見つかる、というのは現代の常識ですが、当事者が「いじめ」という

言葉で検索するとは限りません。その意味では、メディアの報道でいじめ対策窓口などが紹介

されるのは依然として意義があると思います)。

いじめ撲滅ネットワーク

いじめの定義、(「いじめの記録をのこしましょう」などといった)被害者へのアドヴァイス、保護

者へのアドヴァイス、いじめをなくすために必要なこと(スクール・カウンセラー等)、海外におけ

るいじめ対策、日本におけるいじめ対策の成功事例、掲示板、参考文献リストなど。



付記(2007年3月30日)
ここでは言及していませんが,ウェブサイトの悪影響というのもありますね.
[PR]
by aphorismes | 2006-11-03 12:36 | [資料集] 社会société

自殺と模倣とマス・メディア

「報道が頻繁に繰り返されるほど、群発自殺が拡大していく条件

が整ってくる。とくに青少年の場合には映像のもたらす衝撃は大きい」


*(高橋祥友『群発自殺 流行を防ぎ、模倣を止める』中公新書、1998年)。


朝のテレビ・ニュースを見ていて、突然、昔よんだ本を思い出しまし

た。読みかえすと1995年にも中学生による自殺が多発していたとの

こと。著者である高橋氏は、当時における報道の特徴をまとめていま

した(詳しくは同書をご覧下さい)。


<1995年末における中学生の自殺報道の特徴等(172-175頁)>

1) いじめによる自殺という因果関係の極端な一般化
2) 過剰な報道
3) 「ありきたり」のコメントが多い
4) 短期間の集中的な報道
5) 自殺方法についての詳しすぎる報道
6) 具体的な対処法が示されない(電話相談,心の問題の治療法等)
7) 実名報道

付記:
高橋氏が分析したのはあくまでも1990年代半ばの出来事で、それか

ら約10年が経過。最近の自殺報道は教育関係者に対して重要な問

題を提起しておりますし、そうした報道は、ジャーナリストの方々の正

義感から生まれているのだろうと思います。だとすれば、次のように

問うこともまた重要なのではないでしょうか。

過去の教訓は、現在の自殺報道にどの程度いかされているのか、

と。


注*
「群発自殺」の例として連鎖自殺、集団自殺、自殺の名所での自殺な

どが考えられるようです.なお、自殺については、デュルケムの議論

が有名ですが、それだけで全てを説明できるわけではないでしょう。


付記(2007年5月23日)
文章を若干修正,引用部分を整理しました.
[PR]
by aphorismes | 2006-10-30 17:25 | [資料集] 社会société

「家族」の食卓ーードラマ「家族〜妻の不在・夫の存在」 第二回放送分

食卓を囲む食事のシーンは、ドラマや映画などで一家団らんの象徴として頻繁に用いられてき

ました。また、そうした事情を逆手に取る作品もありました。例えば、森田芳光監督の『家族

ゲーム』(1983年)では、一家が横一列に並んで食事をする場面があります。当時、既に家族

の危機などという言葉が叫ばれていたと思いますが、この食卓の場面は、互いに向き会うこと

のない、すれ違った家族関係を視覚的に示しているかのようでした。


ところで、ドラマ「家族」の第二回放送分(10月27日)では、従来の定型的なイメージとは異

なった食卓の風景が描かれていました。妻を亡くし、幼稚園でボランティアをしている初老の

男性(渡哲也)宅の食卓が画面に映し出されるのですが、そこでは、保育園にかよう子供と若

い父親が一緒に食事をしています。食事をしながら、初老の男性は、弁当の作り方を教えま

しょうか、などと若い父親に話しかけます。実際、二人の関係は、家事を教える—教わるという

側面をもつことになります。つまり、この食卓の場面では、妻に逃げられた若い父親と息子、そ

して彼らとは血のつながっていない初老の老人がともに食卓で食事をしているのであり、あた

かも、この場面では、実際の父子関係と擬似的な父子関係が二重化されているかのようなの

です。かつて、血のつながった家族の団らんを象徴する食卓は、「疑似」家族の団らんの場へ

と転用されたのでしょうか。視覚的形態としては、極めて伝統的な食卓の光景でありながら、

意識としては、従来の家族概念を拡張する冒険的な試みが見いだせるーー深読みかもしれ

ませんが、そんな気がしたのです。


付記:

近年の家族論では、格差による家族形成の困難を強調するものがあります。マクロな社会現

象の解説としては、現代性に迫る優れた試みなのでしょう。しかし、その副次的な効果とし

て、不安をあおり、従来の家族像への憧憬を促進するような気がします。歴史的に家族像を

相対化し、異なる家族イメージの探求をうながした近代家族論の志向性は、そこでは、希薄

なものになっているような気がします。これに対して、ドラマ「家族」における食卓はどうでしょ

う。そこでは、血のつながらない人間の交流、ないし疑似家族の団らんの場として食卓が描

かれています。かつて近代家族論が促した異形の家族像を摸索する試みは、現代の家族論

にではなく、ドラマに引き継がれたといってはいいすぎでしょうか。

注:ドラマゆえ、まだまだ続きがあるわけですが、上記の文章は第二回放送分を対象にしたも

のです。
[PR]
by aphorismes | 2006-10-28 13:10 | [資料集] 社会société

「いじめ」に対するまなざしの変遷

「『いじめ問題』は、1980年代前半までは、いじめっ子といじめられっ子、二者間の問題として

捉えられ、しばしば『いじめられっ子』の性格特性も問題視されていた。しかしおそらく森田・

清水(1986)の『いじめの四層構造論』が流通するようになってからと思われるが、いじめは

『学級の病』として捉え直されるようになり、担任教師もクラスメートも『いじめ問題』の当事者

性を付与されるようになっていく。しかも、『いじめ問題』がいじめられっ子の死(=自殺)と結び

つくことで、『いじめ問題』は、圧倒的な被害者パラダイムのもとで語られるようにな」る。

[北澤毅(2001)「少年事件における当事者問題」]


付記:カテゴリーの拡大と他の問題との接合

最近、いじめ問題が再び注目を集めていますが、上記の文章は、それに先立って発表された

もので、いじめを語る際の枠組みの変化を指摘しています(枠組みそれ自体の評価をするも

のではありません)。 安倍内閣が教育改革を主要な課題にすることを表明してから、教師の言

葉が誘発したとされるいじめと生徒の自殺という事件が表面化し、さらには、いじめを隠蔽す

る学校の体質などが 浮き彫りとなりました。発生した事件については残念というほかはなく、

繰り返されないことを 祈りたいところです。制度的な問題点の再検討が必要なのでしょうが、

現地にいって調べたわけでもないので、この点については書かないこととし、ここでは、若干、

気になる点を記します。


今回の事件における報道(の語り)では、教師によるいじめ、また、いじめを隠蔽する学校の

体質などの枠組みが用いられ、いじめ問題をめぐるカテゴリーが拡大しているように思われま

す。さらに、この一つの事件を契機として、「いじめ」と「教育改革」という国家レベルの社会問

題の接合が生じつつあることも見逃せません。


先日、安倍首相は、いじめ問題を優先的に協議するように指示しました。産経新聞によれ

ば、「50年、100年の骨組みをつくるのと同時に、短期的に解決すべき問題もある。その対応

策を考えなければならない」と述べ、教育改革の大枠づくりとは別に、いじめ問題などにも迅

速に取り組むよう求めたようです(10月25日「教育再生会議」第2回会合)。同紙は、この発言

を、「世論の関心が高いいじめ問題にまず取り組むことで、教育改革への関心を高めようとい

う考えとみられる」と分析しています。また、日本経済新聞(10月26日)は、「教育改革、成果

急ぐ」 「参院選前に具体案作り」との見出しを掲げ、「文部科学省や中央教育審議会……から

は生まれない大胆な改革案を提示できれば、安倍政権として来年の統一地方選や参院選へ

の大きなアピールになる」としています。同紙は、「改革の成果を明示して来年夏の参院選に

臨む思惑」を指摘していますが、成果を急ぐことにより更なる問題が生じないことを願いま

す。今後、「教育改革」という文脈において、「いじめ」の問題は、いかなる枠組みに変換されて

いくのか、注視したいと思います。


なお、安倍氏がいじめ問題への取り組みを求めた25日は、衆院教育基本法特別委員会で教

育基本法改正案が審議を再開した日です。新聞によって異なりますし、時期的な問題もあり

ますが、現時点では、いじめに比べて報道がやや地味な気がします。気のせいでしょうか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061026-00000008-san-soci
[PR]
by aphorismes | 2006-10-26 17:20 | [資料集] 社会société