カテゴリ:[資料集] 記憶 mémoires( 7 )

風景と記憶 

新しい建物が建っている。

よく行っていた場所を久しぶりに訪れると、昔はなかった建物が見つかって、少し残念に思うこと

が時々あります。もちろん、新しい建物に慣れることもありますし、建物のおかげで生活が便利

になることも考えられます。そうした様々な可能性のうち、残念に思うのは何故なのだろう、と考

えました。多分、記憶の中の風景に愛着をもっていたからでしょう。あるいは、新しい建物を見た

時に、昔の風景が懐かしく感じられるのかもしれません。


先日、一冊の写真集を見る機会がありました*。

ページをめくっていると、一面の焼野原に瓦礫が散らばっています。そうした風景を撮った写真

が沢山ありました。それらのなかに、写真のそばに地名が記されていることがありました。たま

たまその場所を知っているような場合、昔はこんな状態だったのかと驚きました。そしてその

時、写真の力が増したような気がしました。50年以上前に撮られた写真の中の風景を、記憶の

中の風景に重ね合わせることができたからでしょうか。



付記

写真集には、一面の焼野原を写した写真だけではなく、正視できない写真なども含まれていま

した。もっとも、戦争を体験された方からは、その場にいなければ分からないといわれるような気

がします。


付記2007年8月26日

*下記のサイトで同じ写真家による写真が紹介されております。

http://www.exploratorium.edu/nagasaki/journey/journey1.html
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by aphorismes | 2007-08-08 23:38 | [資料集] 記憶 mémoires

声と記憶

「ミルマン・パリーの要望に応じて……読み書きのできないセルビアの吟唱詩人が,『オデュッセ

イア』と同じほどの長さの詩を朗唱した.」

(M. I. フィンリー,下田立行訳『オデュッセウスの世界』岩波文庫,1994年)


付記

文字を使用しない人々の記憶力にかんする,20世紀前半の事例.

先行する世代の蓄積した膨大なエピソードや夥しい定型句を操り,

熟練した吟唱詩人が聴衆の前で作詩したと述べられています.

(なお,松本仁助『「オデュッセイア」研究』北斗出版,1986年の2章に関連する記述があり)

*投稿後,若干,修正.
*数日、経過しましたので日記(5月4~5日)を削除しました。 
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by aphorismes | 2007-05-04 23:58 | [資料集] 記憶 mémoires

夢における記憶

「知り合いの音楽家があるとき夢の中でメロディーを聴いて、これはまったく新しいものだと

思った。何年も経ってから、彼は古い楽譜集の中にこれと同じメロディーが書かれているのを

見いだした。」(新宮一成訳『フロイト全集4』岩波書店、2007年)


付記
ヴァシードからフロイトが引用している箇所を孫引きしています.

 
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by aphorismes | 2007-04-20 20:42 | [資料集] 記憶 mémoires

韓流以後ー在日映画とアーカイヴの構想

最近、四方田犬彦が興味深い文章を書いていました。それによると、2005年10月に開催された第9回山形ドキュメンタリー映画祭では、在日外国人に関するフィルムが50本以上にわたって一挙上映された。その大部分が在日朝鮮・韓国人の映像であったとのことです。

文章末尾では、アーカイヴについての提言がなされていました。現在、エルサレムにはスピルバーグ・ジュウィッシュ・フィルム・アーカイヴがあって、ユダヤ人が撮影されているフィルムが保存されている。研究者はそれを好きな時にヴィデオブースを借りて閲覧できるそうです。四方田の提言は、作品の散逸やフィルムの劣化を防ぐために、「同様の施設を在日映画のために設立することはできないだろうか」というものでした。詳しくは紹介できませんでしたが、興味を持たれた方は、ご一読ください。

【参考文献】
四方田犬彦「『境界からの視線』ー在日映画の諸相」、『世界』2006年1月

それぞれの時代がその英雄を生み出す。(韓国の諺) 
Chaque époque engendre son héros.(proverbe coréen)
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by aphorismes | 2005-12-23 19:40 | [資料集] 記憶 mémoires

書かれざる証言

被爆者の方の証言を、聴衆の一人として聴いたことがあります。

ただ座っていただけなのですが、戦争体験のない私にとって、目前で語られる証言を聴くこと

は、緊張感に満ちた経験でした。


証言は、文字や活字によって記録されます。活字化することによって、多くの読者が証言を読

むことが可能になります。それは戦争の記憶の継承に寄与することでしょう。


以前、被爆者の方による、手書きの文章に目を通したことがあります。

膨大な資料のなかに、名前は書かれているものの、空白のままの用紙が時折ありました。

長い年月が経過した後に書かれたからでしょうか。しかし、なぜ空白になっているのか、正確な

理由はわかりませんでした。


わたしには、言葉にできない体験だったことを間接的に伝えているような気がしました。

空白が、積極的な沈黙であるかのように思えたのです。そして、その空白ないし沈黙の背後に

どのような体験があるのだろうかと思ったのです。


これらの証言の他、映像化された証言というものも考えられます。


最近、フランスの新聞、Le Mondeのウェブサイトで長崎の被爆者の特集がなされていたのが

印象に残りました(Le Mondeのウェブサイト右端でNagasakiの文字をお探しください.

「entrer」の次に「→」を、そして人物の写真をクリックしてください)。長崎の被爆者の証言を記

録した映像が、ウェブ上で、字幕を付されて閲覧できるようになっているのです。国境をこえ

た証言は、どのように受容されるのでしょうか。


証言は、語られ、書かれ、時に映像化されます。


このような見方とは異なり、哲学者、P.リクールは、その著書のなかで、破片や彫られた像、住

居跡などを、「書かれた証言」に対して「書かれざる証言」と呼びました(ポール・リクール、久米

博訳『記憶・歴史・忘却<上>』新曜社、2004年)。このように考えると、建物の残骸は「書かれ

ざる証言」の一つといえるのかもしれません。


a0049033_23345789.jpg



写真は、爆心地公園にうつされた浦上天主堂遺壁です。上にある石像は、ザベリヨ(ザビエル)

と使徒であるといわれています*(長崎国際文化会館編『碑は訴える』長崎市発行、1986年)

[*上の写真では一部の石像が隠れて見えなくなっています。(2007年8月16日加筆)]


浦上のカトリック信徒らが赤煉瓦(や石材)を積み上げ、浦上天主堂が完成するまでに30年以

上の歳月を要したようです。上記の写真から想像するのは困難ですが、もともと建物は左右に

二つの塔がありました。それらの高さは26メートルに及び、当時は「東洋一」を誇っていたとい

われています。


ところが、浦上天主堂は、原爆により倒壊や焼失の被害をうけます。その際、二人の神父と奉

仕作業をしていた信徒が下敷きになり(長崎市役所編纂『長崎原爆戦災誌 第一巻』長崎国際

文化会館発行、1977年)、約8500人もの浦上信徒が爆死したそうです。


天主堂の残骸に関しては、それを保存すべきという声もあり、論争になったようですが、結局、

1958年3月14日に取り壊しが始められました。残骸の一部は爆心地公園に移される一方、新

しい天主堂が建設されました(長崎の原爆遺構を記録する会編『[新版]原爆遺構 長崎の記

憶』海鳥社、2005年)。


「書かれざる証言」をめぐる複雑なせめぎ合いの結果、爆心地公園に移されたのは浦上天主堂

遺壁の一部分でした。これに対して、被爆後まもない浦上天主堂の写真は、原爆の威力をより

雄弁に物語るように思われます(被爆前と被爆後の旧浦上天主堂の写真が掲載されている前

述の『[新版]原爆遺構 長崎の記憶』をご覧ください)。もとの「書かれざる証言」の全体が失わ

れてしまった、あるいは部分的にしか残されていない、このような場合には、やはり、「書かれざ

る証言」を記録する写真の重要性が際立つように思われます。


付記(2007年8月16日)

当初の文章は、長崎の原爆遺構を記録する会編『[新版]原爆遺構 長崎の記憶』(海鳥社、

2005年)の部分的な要約になっていたため、関連する他の資料を参照して、大幅な加筆・修

正を行いました(なお、後半の記述については、『長崎原爆戦災誌 第一巻 総説編 改

訂版』を参照し、今後、再確認したいと考えております)。冒頭は新たな書き下ろしです。

なお,Le Mondeのウェブサイトについての記述を修正しました。


付記(2007年8月16日夜)

長崎市役所編纂『長崎原爆戦災誌 第一巻総説編』(長崎国際文化会館発行、1977年)で

は、「奉仕作業をしていた信徒数一○人が天主堂と運命をともにした」(360~361頁)と書か

れています。これに対して、改訂版では、「奉仕作業をしていた信徒十数人が天主堂と運命をと

もにした」(414頁)となっています(長崎原爆資料館編集『長崎原爆戦災誌 第一巻 総説編 

改訂版』長崎市発行、2006年)。改定版の正誤表が作成されておりますが、上記の点に関す

る記述はありません。

なお、本ブログの文章では、上記の信徒数に関する記述を削らせていただきました。
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by aphorismes | 2005-11-14 00:18 | [資料集] 記憶 mémoires

回帰の時  Le temps d'un retour

戦後60年の夏、『ル・モンド2』の表紙を飾ったのは長崎の被爆者だった。同誌の特集「長崎 

生存者たち」では、上半身裸になったTaniguchiさんの写真をはじめ、合計3名の被爆者の

方々の写真が掲載された。また、長崎大学の原爆後遺障害医療研究施設に所蔵された膨大

な標本の写真もあった。


[写真:『ル・モンド』紙の日曜版付録、雑誌『ル・モンド2』第81号2005年9月(3〜9日)]

*写真を撮ったのは、「パブリックな視線(L’oeil public)」集団の創設メンバーの一人でチェ

ルノブイリやアウシュヴィッツに関する仕事をしたGuillaume Herbaut氏。「浦上」シリーズは、

Perpignan 国際フォトジャーナリズム・フェスティヴァル「イメージへのビザ(Visa pour

l’image)」で紹介された(期間:8月27日〜9月11日。参考:http://

www.visapourlimage.com)。


付記(2007年5月26日)

写真を削除いたしました。ブログへの掲載について、被爆者の谷口氏、写真家のHerbaut

氏、雑誌『ル・モンド2』の許諾を得ていなかったためです。大変、失礼いたしました。
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by aphorismes | 2005-10-30 19:28 | [資料集] 記憶 mémoires

ある困難さについて

[彼女] 私は全てを見たわ。全てを…。例えば病院を見たわ。それは確かよ。ヒロシマに病院

がある。どうしてそれを見ないでいられるでしょう?

[彼] 君はヒロシマで病院を見なかった。君はヒロシマで何も見なかった。


M.デュラスの小説『ヒロシマ、私の恋人』の冒頭である。平和に関する映画撮影のために来て

いるフランス人女優と日本人建築家の会話。彼に否定されたのち、彼女は平和記念資料館で

見た事柄を克明に語るが、それでも彼は「何も見なかった」と否定する。この箇所については、

『ヒロシマ、私の恋人』の筋書に説明がある。      

「人がなし得る全て、それはヒロシマを語る不可能性を語ること。」

これは被爆地から離れたフランス人作家の言葉にすぎないけれども、不可能性を語る彼女の

言葉は印象的だった。おそらくそれは、禁止を意味するものではなく、認識における困難さの

自覚に関わる言葉なのだろう。

Elle: J’ai tout vu. Tout… Ainsi l’hôpital je l’ai vu. J’en suis sûre. L’hôpital existe 

à Hiroshima. Comment aurais-je pu éviter de le voir ?

Lui: Tu n’as pas vu d’hôpital à Hiroshima. Tu n’as rien vu à Hiroshima.
                                           
Tout ce qu’on peut faire c’est de parler de l’impossibilité de parler de

HIROSHIMA. Marguerite Duras, Hiroshima mon amour, Gallimard, 1960.
                                             
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by aphorismes | 2005-10-29 21:41 | [資料集] 記憶 mémoires