記憶と記録


雨が上がったあと陽光がさし込んで来たせいか、あたりは清々しい雰囲気でした。幼かった私

は、初めて訪れた神社が気に入ったのか、嬉しそうな顔をしていたはずです。今、「はずです」

と書いたのには理由があります。幼少期の出来事を思い出そうとすると、自分で眺めた風景が

蘇るのではなく、写真に撮られた光景が思い出されてくるからです。もっとも、幼少期の出来

事に関して、写真の方が心に焼き付いているということは、別段、めずらしいことではないかも

しれません。問題は、これが写真のイメージだと、私が意識していなかったことにあります。幼

少期、引っ越しのために新幹線に乗ることになったのですが、想起されるのは、プラットホーム

で拒否反応を示していた私の姿であり、第三者の視点から眺められた光景なのです。これも

やはり当時の写真の光景ですが、普段は、そんなことを意識することは全くなかったのです。

記憶が薄れていくにつれ、いつのまにか写真に撮られた風景が幼少期の記憶の代理となり、

ついには記憶それ自体として想起されるようになる。また、ひょっとすると、アルバムを見てい

た際の誰かの思い出話などが、自分の記憶に組み込まれることもあるのかもしれません。記

録が記憶にとってかわるプロセスについて書いたわけですが、しかし、写真的なものは当初か

ら一つの役割を演じていたのかもしれません。写真のなかで私が浮かべていた表情は、写真

を撮る家族に対する反応だったのかもしれないのですから。
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by aphorismes | 2009-02-12 22:43
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