声と映像


物語が明確な映画。これに対し、物語の流れを断ち切るかのように、断片的なイメージが連

続している前衛的な映画があります。このような対比によって隠されるのは、物語的映画が、

実は多様だということではないでしょうか。


後者の場合でも、出来事間の原因と結果が明確なものに対して、そうではない映画があるよ

うに思えます。物語の展開が極めて緩やかであり、観客が様々な想像を巡らせる余地があるよ

うな映画もあるはずです。


ここで、映画の中で語られる言葉について考えてみます。映像の中で語られるのは、物語的な

世界を生きる登場人物たち、それぞれの声であるのかもしれません。そうした言葉の累積が、

映像のなかの行為や出来事の間接的な説明となり、観客は映像を読み解きます。


しかし、ある種の映画では、物語的世界をいきる登場人物の語りの他、物語の語り手の声が

挿入されます。語り手の声は、当然、各登場人物の声を超えるものとして位置づけられていま

す。


しかし、語り手の声がもつ超越的な性格は、ジャンルによって異なります。ハードボイルド風映

画における主人公の声。これは、他の登場人物たちの声に対して特権化された、しかし、「主

観的な」語りとなります。


例えば、工場の中を撮った映像があるとします。途中で挿入される労働者の語りに対して全

体を説明する語りはやはり特権的な位置にありますが、この場合の語り手の声は、「客観的な」

ものとして位置づけられます。


そのような「客観的な」語り手も一様ではありません。語り手が映像の外にいて不可視的な存

在である場合もあれば、具体的な語り手として映像に内在しつつ、それでも「客観的な」説明

として位置づけられている場合もあるように思われます。
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by aphorismes | 2009-01-28 23:02
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