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むかしむかしほのめかし


昔々、あるところに一人の男の子がおりました。本を読むのが好きな少年でありました。さて、

その男の子が大人になりかけていた頃、ある作家の本に出会いました。その本のなかには、

何やら漠然とした言葉が沢山つめ込まれているのでした。何度も読み直すのですが、淡い言

葉は少年の腕をすり抜けて、うまく捉えることができません。


はっきり言い切るのではなく、ほのめかすこと。男の子は、こんな言葉の使い方もあるもんだ、

と感心しました。できれば、自分もこんな言葉が使えるようになれたら、と憧れたものでした。

曖昧な言葉は、ときに解釈する自由として、ときに言葉の深みとして感じられてくるのでした。


それから長い年月が経ちました。


気がつくと紅顔の少年は、厚顔のおじさんになっていました。とはいうものの、曖昧な言葉へ

の思いが失われたわけではありません。しかし、年を重ねるうちに、その難しさを感じるように

もなったのです。


作品の余韻というものであれば、もちろん歓迎すべきものでしょう。しかし、それ意外の場面

では、漠然とした言葉使いをしていると、誤解が多くなるようにも思われるのです。こちらが意

図していないことに相手が応答し、相手が意図していないことにこちらが応答する。立場や状

況、考え方の違う人々。相手が増えれば増えるほど、受け取り方も多様になります。漠然とした

言葉。錯綜する状況。曖昧な言葉使いをするのであれば、その弊害をも意識しておく方がよ

いのかもしれません。


もちろん、明快な言葉使いで誤解を避ける。一般的には、これが最も賢明なやり方でしょう。し

かし、ここでは、別のことを考えてみます。


やっかいなのは誤解それ自体が漠然としているということです。時に、誤解であると確認できた

ように思える場合もあるわけですが、誤解は、究極的には、相手が誤解しているのではないか

という自分の推測に基づくような気がします。自分はこう思っているのだけれど、あの人はこう

思っているらしい。もし、誤解の当事者たちに観察者をくわえたとしても、高い次元で推測が

再帰するように思われます。そして、それは無限に続くのです。


もちろん、明快な言葉使いをすることによって、また対話を通して、いわゆる誤解を避ける努力

をすることは可能でしょうし、ここで、それを否定したつもりはないのです。しかし、空から天使

が舞い降りてきて、様々な人々の絶対的な隔たりを教えてくれる、そんな日は来るのだろうか

と思うこともあるのです。
by aphorismes | 2008-07-16 23:24
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