「前人樹を植えて後人涼を得」 --諺からの連想 

木の生長には時間がかかります。暑い日差しから逃れて木陰で休むことができるのは、ずっと

昔に、その木を植え、育てた人がいたからなのでしょう。このような文字通りの意味だけでなく、

より一般的な意味がこの諺にはあるようです。辞典によると、「前人樹を植えて後人涼を得」と

は、「昔の人の工夫・努力のおかげで、今の人は楽をすることができるということのたとえ」です

(尚学図書編『故事俗信ことわざ大辞典』小学館、1982年)。これを読むと、単に自然の所産

のみならず、技術的な所産に対しても、この諺を当てはめたくなりました。自分の暮らしが前人

の工夫や努力の上に成り立っていること、それは普段は忘れられてしまうことが多いのです

が、指摘されると誰もが思い当たることでもあります。そうした一般的な事柄を友人に話しても、

驚かれることはないでしょう。しかし、木を植えることや涼を得ることにたとえると反応は変わるよ

うに思われます。いつの時代の言葉かはわかりませんが、表現の妙味というものが、この諺に

感じられます。


ただし、疑問がないわけではありません。木を育成するのは人間だけでしょうか。木が生長する

にあたって陽光や雨などといった自然の恵みを忘れることはできないように思われます。あえて

諺から逸脱すると、人間と樹をとりかこむ環境があってこそ木が育つのであり、それらの環境の

おかげで「涼を得」ることができるともいえるのかもしれません。また、そもそも「涼を得」ることが

好ましいのは、後世の人が暑いからであり、暑い季節であることが条件となっています。つま

り、恩恵をもたらすものが育成される環境、そして享受する者にとってそれが恩恵と感じられる

条件について、この諺は注目していないようなのです。さらに、それは物事に両面があることに

ついて語ってはいません。例えば、立派に育った木から人が涼を得られたとしても、その木が

病気にかかって根元から倒れ、枝が落ちることも考えられます。ここまで考えると、もとの諺と

は逆の意味になってしまいそうです。


仮に、「前人」と「後人」を、視点によって変化するものとして考えてみてはどうでしょうか。「今の

人」は次の世代から「昔の人」と呼ばれることがありますし、「昔の人」はかつて「今の人」であっ

たはずです。長い時の経過の中では、「前人」が「後人」になり、「後人」が「前人」になることもあ

るのです。このように考えると、自然の所産や技術的な所産に対して果てしなく続けられる育成

や創造、修復、改良、享受の過程が想起されます。昔の人が植えた木が倒れそうになっていて

も、それを見つけて、その木を治療し、幹や枝を支え、あるいは新しい品種の木を植えようとする

人が現れるかもしれません。そして後世の人は前の世代の前人のおかげで涼を得ることができ

る。そうした過程が繰り返されていく――それは、現代にいたるまで続けられてきたのでしょう

か。それはまたこれからも続けられるのでしょうか。
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by aphorismes | 2007-08-10 00:15
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