「家族」の食卓ーードラマ「家族〜妻の不在・夫の存在」 第二回放送分

食卓を囲む食事のシーンは、ドラマや映画などで一家団らんの象徴として頻繁に用いられてき

ました。また、そうした事情を逆手に取る作品もありました。例えば、森田芳光監督の『家族

ゲーム』(1983年)では、一家が横一列に並んで食事をする場面があります。当時、既に家族

の危機などという言葉が叫ばれていたと思いますが、この食卓の場面は、互いに向き会うこと

のない、すれ違った家族関係を視覚的に示しているかのようでした。


ところで、ドラマ「家族」の第二回放送分(10月27日)では、従来の定型的なイメージとは異

なった食卓の風景が描かれていました。妻を亡くし、幼稚園でボランティアをしている初老の

男性(渡哲也)宅の食卓が画面に映し出されるのですが、そこでは、保育園にかよう子供と若

い父親が一緒に食事をしています。食事をしながら、初老の男性は、弁当の作り方を教えま

しょうか、などと若い父親に話しかけます。実際、二人の関係は、家事を教える—教わるという

側面をもつことになります。つまり、この食卓の場面では、妻に逃げられた若い父親と息子、そ

して彼らとは血のつながっていない初老の老人がともに食卓で食事をしているのであり、あた

かも、この場面では、実際の父子関係と擬似的な父子関係が二重化されているかのようなの

です。かつて、血のつながった家族の団らんを象徴する食卓は、「疑似」家族の団らんの場へ

と転用されたのでしょうか。視覚的形態としては、極めて伝統的な食卓の光景でありながら、

意識としては、従来の家族概念を拡張する冒険的な試みが見いだせるーー深読みかもしれ

ませんが、そんな気がしたのです。


付記:

近年の家族論では、格差による家族形成の困難を強調するものがあります。マクロな社会現

象の解説としては、現代性に迫る優れた試みなのでしょう。しかし、その副次的な効果とし

て、不安をあおり、従来の家族像への憧憬を促進するような気がします。歴史的に家族像を

相対化し、異なる家族イメージの探求をうながした近代家族論の志向性は、そこでは、希薄

なものになっているような気がします。これに対して、ドラマ「家族」における食卓はどうでしょ

う。そこでは、血のつながらない人間の交流、ないし疑似家族の団らんの場として食卓が描

かれています。かつて近代家族論が促した異形の家族像を摸索する試みは、現代の家族論

にではなく、ドラマに引き継がれたといってはいいすぎでしょうか。

注:ドラマゆえ、まだまだ続きがあるわけですが、上記の文章は第二回放送分を対象にしたも

のです。
[PR]
by aphorismes | 2006-10-28 13:10 | [資料集] 社会société
<< 自殺と模倣とマス・メディア 「いじめ」に対するまなざしの変遷 >>